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誤った靖国史観

しばらく更新をお休みしてすいませんでした。今日からまたしばらく、集中して韓国の歴史を掲載いたします。わたしがこのサイトを立ち上げたのは、靖国史観――1874年から1945年までの、日本が行った侵略戦争を肯定する史観――いわゆる、「西欧列強の植民地主義からのアジアの解放」、「避けられない戦い」、「自存自衛の戦争」などの、誤った歴史認識を批判するためです。ソビエト連邦は、1945年8月8日深夜、駐ソ連大使に宣戦布告し、...

三別抄の抵抗

1196年に高麗の実権を握った崔氏政権は、三別抄を創設し、発展しますが、1216年、モンゴルの攻撃によって金が衰えたため、契丹は再び高麗への侵入を始めました。そのため、高麗はモンゴルと結び、1219年、江東城に契丹を殲滅します。以後、モンゴルは高麗に莫大な貢物を要求するようになりました。しかし、1225年、モンゴルからの使者が帰る途中、鴨緑江のほとりで何者かに殺害されると、モンゴルと高麗の関係は一気に緊張しました...

三別抄の発展

西ヨーロッパには、国王とは別に、教皇、大司教などの宗教的権威が存在し、王家とは独立した権力を行使する場合があります。こういう事情を背景に、教会の徴税権を否定したルターが、ドイツなどの王侯に支持されるのですが、この二王国制は、日本を含むアジア、アフリカなどでも、しばしば布かれました。藤原氏、平氏、源氏、北条氏政権なども、この二王国制に当たります。高麗でも1170年に鄭仲夫が、庚寅の乱を起こし、毅宗を巨済...

姜邯賛の活躍

926年、契丹族の興した遼は、渤海を滅ぼし、高麗は渤海の遺民を吸収して、鴨緑江以南に伸張しました。高麗と契丹は互いに伸張を続け、対立するようになります。993年、契丹の蕭遜寧が80万の大軍を率いて鴨江を渡って義州に侵入しました。高麗の徐熙(ソヒ)将軍は、契丹への服従を誓い、契丹に江東6州を返還させました。1010年にも、契丹は20万の大軍で高麗に攻め込み、西京を陥れました。高麗の姜邯賛(カン・ガムチャン)将軍は、契...

後三国時代

9世紀末、新羅の民衆の叛乱は全国規模に発展します。尚州加恩県生まれの甄萱(キョンフォン)は892年に叛乱を起こし、武珍州(現在の光州)で新羅から独立します。900年には完山州(全州)に都して、後百済王に即位します。新羅王族の弓裔は、891年に叛乱を起こし、梁吉の元で武功を挙げました。901年には梁吉を倒して松岳(後の開城)に都し、高句麗王に即位しました。後百済と後高句麗は新羅と対等に争い、また、後百済と後高句麗も...

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プロフィール

辻小姐-つじしゃおじえ

Author:辻小姐-つじしゃおじえ
こんにちは、辻小姐です。
小姐とは、英語のMissのような意味の中国語です。
日本の旅館や料亭の、「お姉さん」のような意味にも使われます。ウェイトレスや何とかアテンダントのような職業は、みんな小姐です。えっちなお店の女の子もです。
でも、わたしはそういう店では働いていませんよ。

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